東北大地震2011/04/09 20:32

2011年3月11日 午後2時46分 地震発生!
私はその時には仕事で本厚木に居りました。

おもてでの作業でしたので地面がグラグラ、もしもビル内だったらもっと揺れを感じていたのかもしれません。
周りのビルはいつの間にか早仕舞いしておりましたが、私達は最後まで仕事でした。
仕事を終えて携帯電話、何故か?全く繋がりません。
駅に行くと、シャッターが下りていて電車は不通となっておりました。

この瞬間に事態の大きさを知りました、と同時に帰宅難民となっておりました。
電車は止まっているし、バスでは帰れないし、タクシーは捕まらないし乗れたところで大渋滞だ。
残る選択肢は徒歩・歩き以外には何もありませんでした。

しかし、歩くにしても方向が不明です。先ずは地図が必要だ。
本日は地震の影響で店を早仕舞いします、地図は入手したが追い出されるように店を出た。

地図で方向を調べて、後はひたすら歩くだけです。
歩く、歩く、歩く、歩く、歩く.....、5時間ほど歩いて家までたどり着きました。

かなり寒い日だったのだが、歩いていると寒くはなかった。
徒歩での帰宅だが、食べ物や、トイレなどが利用できないと家までたどりつかないかもしれない。
このような状況だと体力だけ有っても、だめなようです。

私は地震の影響がない道だったのでコンビニで食料もトイレも利用できたのです。
家に到着してから、全部が引っくり返っていて簡単には寝れる状況ではなかったのでした。

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復旧支援で宮城県の仙台に行っておりました。
支援と言いながらボランティアではなく仕事です。

東北道が使えないので関越道で新潟にでてから仙台に向かいました。
15時間かけてやっと仙台に到着しました。
支援でも寝る場所と食事がなくては、何もできはしませんが、最初のころの食事はカップ麺などでした。
お弁当など手に入るはずもありませんから。もちろんと言うべきかお風呂もありませんでした。

実際の作業場所は仙台市内ではありません、私は塩釜港の近くでした。
これは後で知りましたが気仙沼などは瓦礫の山で本当に何もない状態ですが、塩釜港は建物は存在しておりました。
塩釜よりも海から遠いと思われる多賀城のほうがもっと酷い状況でした。

2011年4月1日 ひとまず作業を終了して東京に帰ることとなりました。
このころには場所によっては、食料などの物資も十分にでまわっておりました。

帰り道の早いこと、東北道を使って5時間ほどで東京に戻れました。

これから、私に何ができるのか?
風評などに惑わされずに、お店に並んでいる商品を買ってあげることぐらいでしょうか。
自分も食べないと生きていけないし、生産者の方は私達消費者よりも神経を使って販売しているのですから。

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